市川OBに天理大学競技ダンス部の歴史についてお話を伺いました。
天理大学競技ダンス部の歴史は1970年にさかのぼる。
当時は学生運動がようやく終息の兆しを見せ、大学内に落ち着きが現れ始めた時期だった。
天理大学学生自治会総務部はそうしたなか、学生運動の荒波から母校を何とか守り抜いた想いがあり、これからは好きなことをして学生生活を謳歌しようではないかという雰囲気になってきていた。
天理大学競技ダンス部OBOG会 社交ダンス 競技ダンス
Introduction of OBOG Society
学生自治会のメンバー、曽山、西谷、富永、中島は当時三回生。
二回生に柳生、一回生に市川がいた。当時、大学には宝塚出身の女性職員がいて、彼女を囲んでカマボコハウス(当時のクラブ部室)でのダンス練習は学生運動の盛んな中では「食後の珈琲」を味わうようなやすらぎがあった。(当時の「ダンス」は社交ダンスを意味していた)
中心の三回生三人が卒業したのちには市川の下に元応援団の小野、南浜、谷、矢持が自治会に入りダンス同好会はますます、ダンスパーティ実行委員会化していった。
当時の練習場所は空手道場。もちろんダンスシューズなどなく、特殊な靴があることすらダンス同好会のメンバーは知らなかった。
その後、徐々にダンスのなんたるかが解ってきた面々に、初めて女性部員(三尾谷)が入部して、フロアが必要なんだということに気づき始めた。
練習場所は杣ノ内集会所になった。空手道場から集会所。しかし集会所の床は、今もそうだがコンクリートの打ちっぱなし、いわゆる三和土だった。ダンスシューズは一ヵ月と持たなかった。
市川が三回生の時、ダンス同好会はダンス部に昇格する。
練習場所も4-4-Aに替わった。1976年奥村、今枝、西本、石井が入部。関西学生舞踏連盟にも加盟。
しかしながら当時のダンス部は順風満帆ではなかった。
部員が思うように増えなかったのだ。
1979年の構成は三回生が3名、二回生が2名、一回生は2名(最終定着数)になる。
1981年年度末、当時の三回生部長の怠慢により新入部員の定着は1名。
二回生はたったの2名。
その部長も勝手に退部してしまい部員は三名(三回1、二回2、一回1)、82年の三月の春季練習はとうとうキャンセルになった。
これが最初の存亡の危機だった。
今日、ダンス部は名前も競技ダンス部に変わり、部員も30~50人の間を前後するようになった。4-4-Aでは練習ができなくなり4階の講堂を借り切って練習をしている。
これからも現役諸君にはしっかり頑張ってほしいものである。
